雑記の最近のブログ記事

CAP 年次総会に出席しシカゴに滞在している間、余暇を見つけて 街を散歩した。シカゴはビルの建築が芸術的だという定評があり、ビル街をめぐる川クルーズもある。

建築美を誇るシカゴ.jpg

Chicago Museumも印象派の絵画のコレクションが豊富である。夜は、Jazz Liveを聴きに行った。

Water's ring Jazz PlaceChampian Fulton, Jazz showcaseでのPharez Whittedに足を運んだ。

The Winter Jazz Place.jpg


Jazz Trumpet.jpg

前者では女性ボーカル、後者では、男性トランペットを中心としたトリオであった。いずれもYouTubeなどで有名なエンタテイナーであった。

シカゴは、楽しい街である。

増田ユリア著 「世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ」ポプラ社 を読んで

カタリン・カリコ.jpg

カタリン・カリコ博士は、新型コロナウィルスのワクチンの基本となったmRNAを使用して抗体蛋白を体に作らせ、抗体による感染防止を考えた人です。

ハンガリー生まれで、科学者の道を進むも、政治的に継続が困難となり米国に渡り研究を継続。数々の困難に打ち勝ってmRNAの理論を打ち立てます。現在ファイザー社のワクチンの元となったビオンテック社の副社長。何事にもめげず、持論を患者救済に生かしたいという強い意志を貫いた科学者です。何事にも揺るがない科学への熱意を持つことは最も大切なことと私も実感しています。この生き方は、ひとり娘スーザン・フランシアに受け継がれ、スーザンはアメリカの代表として2008年北京、2012年ロンドンで開催されたオリンピックで金メダルを獲得しました。"母から学ぶことが多かった"と回想しています。

 

セゲト大学.jpg

カタリン・カリコ博士は、幼少の頃、また成長期に有名な科学者と知り合う機会があり、大いに激励を受けました。中でも特記されるべきは、幼少のころより学校で教わる機会のあった高校教師のアルベルト・トート先生。また科学的思考においては、彼女がハンガリーのセゲド大学に学び、研究者として活躍しはじめるころ、ビタミンCを発見しノーベル生理学・医学賞を受賞したセント・ジュルジ・アルベルト博士、ストレス学説を唱えのハンス・セリエ博士など。 トート先生は、幼少のころから彼女が生命現象に深い興味を持つことを見出しました。セント・ジュルジ・アルベルト博士、ハンス・セリエ博士は、科学に没頭する中において、遠く離れた若い科学者からの疑問に直接手紙などで答える熱意を持った人たちでした。彼女が所属していたサークル顧問のトート先生はノーベル生理学・医学賞受賞者のセント・ジュルジ・アルベルト博士にサークルのサポートをお願いする手紙を出したかったが、博士のアメリカの住所を知りませんでした。高齢の郵便局員が「有名人だから大丈夫だよ、名前とUSAと書けば届くから」といった。1972年のこと。いわれるままに「Dr. Szent-Gyorgyi USA」と半信半疑のまま出した。数日して本当に返事がきたことは、感銘を受ける話です。


アルベルト博士・ハンスセリエ博士.jpg

私も、米国留学して数か月 当時興味を持ち始めた下垂体、副腎についての病理学の疑問をストレス学説のハンス・セリエ先生に 投げかけたところ、"見ず知らずの若いレジデントに"丁寧なご返事と、疑問を持ったことへの称賛と、それについての独自の考え方を書いた手紙を貰いました、その熱意に感激したことは今でも決してわすれない記憶です。若い人たちにも激励の手紙を書いていた科学者の意気込みを今でも感じます。私もすこしでもその熱意に近づこうと病理医、科学者など若い学徒からの質問には丁寧に答えることに務めています。

現在行われている東京オリンピックで、アメリカが優勝した競技の表彰式で米国の国旗掲揚と米国国歌が流れた。ふっとDr. Charles Wetli(ニックネームChuck)を思い出し、45年前別れたきりのChuckはその後どうしているだろうか?、、、、、と 早速Google searchをしてみた。すごい連想力だと思った。

 

1975年、私は米国留学し専門医資格(American Board of Pathology ABP)を取得して帰国し、東海大学に就職して、母国での病理学のキャリアを始めたところであった。

米国での仕事、生活が懐かしくてたまらない時期であった。その頃、やはり新設医学部であった北里大学で、米国病理医とのカンファレンスが始まり、嬉しくも私にもお誘いの声がかかった。故西山保一教授が主催されており、早速出席させていただいた。毎回Case presentationがなされ、非常に興味のあるカンファレンスであった。そこで紹介されたのがChuck Wetliであった。Zama US Army Hospitalの若い病理医(Chief)であった彼は、非常に良く病理を知っていた。

調べた情報では、Chuckは私より1歳年上でZama HospitalにはABP合格後12年で就任したので病理の経験は私と同様であったとはずである。彼とは気が合って個人的な付き合いも始まり、Zama Hospitalにはしばしばお邪魔して病理のDiscussionをしたことを思いだす。住宅のあるCamp Zamaのご自宅にもお邪魔した。Campでの住まいは 芝生のあるアメリカの高級住宅街そのものであった。

Zama hospitalでは、5時になると米国国歌が流れ国旗おろす。その間敬礼saluteを命じられた。"Bob()We have to salute"Chuckに言われて私も敬礼をしたのを思い出す。これが、今回45年後にChuckを思い出した背景である。

 

Chuckとは親交を重ねたが、1978年ころマイアミに帰国した。寂しかったのを思い出す。2年後だったか、マイアミでUSCAPが開催され、そのころChuckはフロリダで法医学のキャリを進みその上昇気流の中にあった。以後、時折思い出すことはあっても、お会いする機会は不思議と訪れなかった。

 

早速GoogleCharles Wetliを調べた。なんと法医学で有名人となっていた。

Dr. Charles Victor Wetli.png

Charles Wetli, Medical Examiner for TWA Flight 800 crash, dies at 76. 

昨年の728日に亡くなった。死因は肺癌であったと報告されている。


NY Timesの報告によれば、1996717日にNYKennedy国際空港からパリに向けて飛び立ったBoeing747は離陸まもなく爆発してLong Islandの南の大西洋に墜落した。機内にいた230人は全員死亡した。4年間の解析の結果燃料タンクの爆発が原因であった。テロの可能性を否定するために全員の法医解剖がChuck Wetli(当時Long Islandの法医学主任Chiefであった)の指揮のもと行われた。時間がかかったため、政治家、家族などから批判が続出したが彼は自分の意志を貫徹して全員の個人の同定を可能にした。


NY Timesに掲載されるこのような逸話があるChuckに若いころ親交を得たことは、私の病理人生に花を添えてくれたと感謝している。

"Chuck! you did a great job. Please rest in peace" 

 

 

折角なので少しDaniel Inouye氏について資料を検索して読んでみた。

以下はその抜粋(抽出)である。

Inouye氏は、第二次世界大戦で、右腕を失い医師になる夢を断念せざる負えなかった、という経緯がある。それにもめげず1959年から50年にわたり選挙で上院議員に選出され大いに活躍された。

最終的には、最古参となる長年の上院議員での活躍などが、高く評価され上院仮議長を亡くなるまでつとめた。上院仮議長は、大統領継承順位第3位の高位であり、アメリカ歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとされている。

201212月に88歳で亡くなった。3日後、遺体を納めた棺がアメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に安置され、追悼式典などが開かれた。大広間に遺体が安置されるのは、Abraham Lincoln, John F. Kennedyなど一部の大統領や、ごく少数の議員に限られており、Inouye氏は、全体でも32人目、アジア系の人物としては初めて大広間に安置された人物となった。(以上Wikipedia

下の画像は、今も残る公式サイトのホームページです。

Daniel HP.png

また、福岡県八女市の「広報やめ」で八女市出身、ダニエル・健・イノウエ氏を紹介していて【広報アーカイブス】で閲覧できる。

  広報やめ2012101日号 (PDFファイル: 1004.3KB)

  広報やめ20151115日号 (PDFファイル: 1.4MB)


亡くなる前、2016年にInouye氏は10回目の選挙に出馬する計画を立てていた。当選すれば任期を全うするときは92歳になるところであった。その時、彼は次のような素晴らしい言葉を残している。

I have told my staff and I have told my family that when the time comes, when you question my sanity or question my ability to do things physically or mentally, I don't want you to hesitate, do everything to get me out of here, because I want to make certain the people of Hawaii get the best representation possible. (Wikipedia)

私は、私の人生において同様な言葉を口にするには、

まだまだ頑張らねばいけないと思っている。

blog83 Inouye first.jpg

World War II veteran Daniel Inouye was known for his efforts toward deepening ties

(Japan Times 2021113日記事) Web版


私は、時々英語にふれたくなったり、またアメリカの日常も知りたくなったりし、朝の通勤時にJapan TimesNew York Timesを読む。偶然手に取った113日のJTに上記の記事が掲載されていた。

今回の記事は、日米友好の印として、Inouye氏のご祖父の生まれ故郷である福岡県の八女市に銅像(bust)を建立することに関する記事である。一緒に植樹されたハナミズキ(私の好きな)は米国から日米友好の象徴として贈られた花とのことである。

Daniel Inouye氏は、1924年にハワイで生まれ、2012年に88歳で亡くなっている。その間50年の長き(全米で2番目)にわたり、米国の上院議員を務め、その間にご自分のルーツである八女市を訪れている。市でもこの銅像が日米友好のシンボルになるよう期待している。Inouye氏は、第二次世界大戦中(ヨーロッパ)での功績が認められ米国政府が軍人に授与する最高の勲章Medal of Freedom, Medal of Honorを授与されたと記事は結んでいる。

Daniel Inouye氏は、私が卒業後渡米して、四苦八苦して病理の研修に明け暮れていた1972年ころ、Nixon大統領(当時)を辞任に追い込んだWatergate事件の公聴会で上院議員として厳しく鋭い質問をしていた光景を鮮明に覚えている。連日TVで放映されていたが、Inouye氏の姿は病理を研修中の"時にめげそうな"私に勇気と元気をくれた。Inouye氏はその時"Ⅱ世の日本人"として強烈な印象を与え、それ以後最近まで折に触れ思い出していた。

勿論直接お目にかかったことも話をしたこともない。私を元気づける思い出として"静かに心の中に燃え続けている"と表現すると適切なような気がする。

人生にはこういう出会いもあるのであろう。

happy new year 2021.jpg

あけましておめでとうございます。

今年は、COVID-19の世界中のパンデミックの中で、いつもとは違う新年を迎えています。毎日、TVでは世界中および日本での、COVID-19の感染状況を定期的に放映し、海外はもとより日本国中でも移動が制限されており、特に海外への学会出張は、私は昨年の3月初旬にLAで開催されたUSCAP以来ゼロです。

私は、病理医という医療従事者として病院に勤務していますが、COVID-19の影響は極めて大きいものと実感しています。医療崩壊の危機が世界中で叫ばれる中、我が国でも"緊急事態宣言"が昨日(17)出されました。

世界中が、いわば静止状態となってしまった現在に生きているという事実は変えられません。この中で、昨年の12月初旬から、国際病理アカデミーIAPの理事長を拝命したのも、運命のめぐりあわせと思い、精一杯努力して任務を全うしたいと思っています。新年にあたり次の2点について述べ「今こそ"海を渡ろう・外に出よう・人と混じろう"」を強調したいと思います。

病理学・病理診断の推進:海外渡航が極めて難しくなった現在、情報交換はオンラインでする以外ありません。国際学会の学会活動もWeb開催となり、その短所・長所が論議されています。国際的な委員会なども、WebZoomが多い)となり、温もりを感じながらの会話とは程遠い感じです。このような状況でありながら、病理学での教育の国際的な展開を余儀なくされているのが現状です。私は、今IAPと他の学会がどのように国際的な連携できるかを考えています。ネットワークを駆使して国際的な協調から良い教育システムが構築されれば、わたしたちがコロナ禍の時代に"より"賢くなった明かしを示せるのではないでしょうか? 発展途上の国々にも行き渡るようなシステムの構築に思いをめぐらせています。

Webにより、今まで以上に広い世界に教育資材を供給できるようにしてゆきたいものです。

メールを使って世界に知人をIAPは世界に55か所の支部を有する国際機構であり、私は幸い各所に知人がいます。暮れから正月にかけて機会あるごとにIAP関係の個人、支部などに上のような"Season's Greetings"のメールを出しています。そして確実にこのネットワークの輪は拡がってゆく実感を得ています。学会の会場で出会い触れ合うことのできる繋がりも素晴らしく不可欠のものと思いますが、オンラインで普段では想定しないような遠方の国から返信があるときなど、手応えを感じます。移動ができないからと言って、"日本という島"に閉じこもるのではなく、今こそ新しい人とのつながりを求めてゆくことも重要と思います。Web環境では、違った形で"海を渡ろう・外に出よう・人と混じろう"が更に広い範囲で可能になっていることが実感されます。

今も "海を渡ろう・外に出よう・人と混じろう"など私の根本姿勢はかわることはありません。コロナ禍で、このような難しい状況であればこそ、これを私は特に若い諸君に"新年に贈る言葉"として考えてもらいたいと思います。

そしてワクチンなどの有効性が発揮され、再び実際に海を渡れる日が早くきて、"外にでよう・人と混じろう"がOn siteで実行できることを心待ちにしましょう。

私の国際的な病理学の活動は、米国留学に始まる。国際病理学という学科目があるわけではないが、私の病理学の活動を"国際病理学"と称してまとめてみたい。 

1970年から1974年はコロラド州デンバーで病理診断学を研修し病理学研究の取り掛かりを得ることができた。1974年から1年間ミシガン州デトロイト市にあるHenry Ford Hospitalにて外科病理学のフェローとして勤務した。 5年間で病理診断学全般を習得し、研究のテーマを見つけることができた。1975年の3月に初めて米国の病理学会、New Orleansで開催されたUSCAPに参加したことも、 後に数多くの国際学会に出席する事の始まりになった。 学会に採択された抄録は、神経内分泌腫瘍の一つである嗅神経芽腫 olfactory neuroblastoma / esthesioneuroblastomaであったことも、後に内分泌病理学を専攻することになった因縁を感じるものである。 この腫瘍は論文として1976年に雑誌Cancerに掲載された。雑誌に採択された私の初めての論文であった。それ以来毎年開かれるUSCAPには、抄録を応募して参加している。

当時New Orleansで体験した本場のJazzに魅了され現在に至り、病理学と同じくらい情熱を傾けている。

留学から帰った後も、USCAPを初め、多くの病理学、細胞診、内分泌学、組織化学の国際学会に出席し研究成果を発表した。日本を留守にすることが多く、周囲に迷惑をかけることも分かっていたが、ご理解とご支援をいただけたことに深く感謝している。これまで英文での論文発表も500編を超えるまでになった。 それぞれの学会で多くの国際的な知己を得ることが出来た。2008-2012には、国際組織細胞化学会議(IFSHC)の理事長、2016-2019には、国際細胞学会(IAC)の理事長を拝命したこの上ない名誉な事であり、多くの方々のご支援、ご協力に感謝するものである。

今年のUSCAP229日~35日にLos Angelesで開催された。現地に到着した翌日に米国でCOVID-19による最初の死亡者が報告され、まさにOutbreakの始まりであった。少し遅ければ大Outbreakに巻き込まれ帰国もままならない事態であったことを想像すると運が良かったと思う。それ以来、国内外のほとんどの学会が延期あるいはWeb開催となっている。まさに今まで経験したことのない事態である。

来る121日から私は、International Academy of Pathology(IAP)国際病理アカデミーの理事長を拝命する予定であり これまでのご支援に応えるべく全身全霊をもって活動する覚悟である。任期は2年。 残念ながら当初8月にGlasgowで開催予定されていた国際学会ESP/IAP学会が、COVID-19の猛威を受けて、 12月に延期になった。無事開催されることを心より祈るものである。IAPの活動の中心は、国際的な病理学の教育である。近年急速に発達したデジタル病理学を用いて、 グローバルな視点から、各領域に合わせながら教育の充実、精度向上に勤めて行きたい。また、2026年に開催予定のIAP国際学会に福岡市が立候補しており、開催に向けて最大限のご支援をする所存である。

米国コロラド州デンバーに留学中, 私は免疫組織化学の発案者である中根一穂教授(Prof. Paul K. Nakane. PhD)から直接手ほどきを受け、当時中根教授が興味を持たれていた下垂体の組織学及び病理学に興味を持った。 後にヒト下垂体腫瘍へ免疫組織化学を応用し腫瘍の分類を体系化した。下垂体を通して内分泌細胞のホルモン産生機序とその異常(病理)に興味を持ち内分泌病理学を専門分野とするようになった。他所にもすでに記載したこともあるがコロラド留学中に発見した ACTH産生細胞の変化がすでに30年以上も前にCrooke変性として報告されていたことは忘れ得ない経験である。最近経験することであるが、このCrooke変性を伴う下垂体腫瘍が稀にではあるが癌化し、肝転移をする事実は今持って驚かされる。長年この領域の研究に情熱を注いできたが、WHO Endocrine tumors 2017Volume Editorを努めることができたことは、大変に光栄なことだと思っている。

最近は、内分泌病理学の分野として、肺のカルチノイド/神経内分泌腫(Carcinoid/NET)のチャプターの執筆を受けたりする立場になっているが、私の最初に書いた英文論文"Peripheral and spindle cell carcinoid of the lung"は、1973年にコロラド留学中にArchives of Pathology and Laboratory MedicineCAPの機関紙)にCase reportとして投稿したものの、見事にRejectされてしまった。落胆したものであったが、そのご奮起して多くの論文を書くことになった。今日PubMedPeripheral Spindle cell carcinoid of the lung検索すると最近(2018年)でも"私が最初に目を付けた"病変の報告がhitする。George Papaxoinis & Angela Lamarca & Anne Marie Quinn & Wasat Mansoor & Daisuke NonakaClinical and Pathologic Characteristics of pulmonary Carcinoid Tumors in Central and Peripheral Locations  Endocrine Pathology (2018) 29:259-268

私の長い内分泌病理学の中で記憶に残る事象である。

私は1970年に医学部卒業し医師になって50年を迎える。この間の病理学の変遷を振り返ってみたいと思う。

卒業後病理学教室に入局したが、すぐに渡米した。8月から米国コロラド州デンバー(Denver)にあるコロラド大学メデイカルセンター(UCMC)で病理レジデントとして病理学習得のため大いに励んだ。これが私の病理学人生の始まりである。

この50年間の"病理人生"には、波がいくつかある。免疫組織化学、分子病理学、デジタル病理学が代表的と言える。免疫組織化学はコロラド大学留学中の1973年に中根一穂(Paul K. Nakane)教授の元で習得し、その方法は帰国してからわが国で急速に普及し研究・診断に応用されやがて黄金期を迎えることになる。今では、市販抗体も数多く普及し、さらに自動化されて現在に至っている。1990年頃から免疫組織化学と並行して普及し始めた分子病理学は、ウィルスの同定に始まり、癌の遺伝子変化の解析に移行して、現在では次世代シーケンサー(Next Generation Sequencer)としてのパネル検査へと発展している。病理画像をデジタル化して、診断に応用するデジタル病理学は日常の診断のみならず、遠隔診断に用いることが期待される。さらにはデジタル画像に人工知能AIを応用して病理診断の自動化を行うまでになっている。私の50年のキャリアの中で、これらの大きなイベントを経験し、少なからず貢献できたことは無類の喜びと言える。

免疫組織化学、遺伝子(ゲノム)解析、デジタル画像などが病理学に導入され、病理診断の精度が上がり、治療への応用が具体化し、診断自動化などが現実のものとなっている。これに関する多くの医療機器が海外から輸入されているのも事実である。我が国で現在死因のトップを占める癌の早期発見、早期治療はすでに軌道に乗っている領域もあるが、中には膵癌のように進行癌で発見される例も少なくない。ボーダーレスになって来ているがん医療、早期発見早期治療に、我が国の病理学が発信する新しい情報に大いに期待したい。

 

参考:https://www.carenet.com/news/general/carenet/48233

休日には、ジムに行って筋トレ、ランニングそして水泳で体力を保つ努力をしている。相当な汗をかいていると思う。終わった後でなぜかDr. Pepperを飲んでしまう。気持ちをFreshにする青春の味だからと思う。

私が渡米したのは、1970622日医学部卒後3か月のことである。

そのころ日本にはCokeはあったが、Dr. Pepperはなかった。

最初の留学地はDenver Coloradoであった。Hamburger, MacJack in the Boxも良く通った) Fried Chicken KFC, Pizza,...そしてDr. Pepperすべて初めて口にするものであった。

Dr. Pepperは名前もユニークであったが、味もCheeryと炭酸で"得も言われぬ"味で病みつきになった。今でも、Dr. Pepperを飲むと、その味が40年前の気持ちにさせてくれる。青春の味、スポーツの後には最適である。

私が学部学生のころ、水泳に明け暮れていたことは、随所に記載しているが、当時すでにビンコーラBottle Cokeは飲んでいた。Cokeについていろいろと意見があったが、私は単純に"美味い"と思って良く飲んだものである。私の青春にとってしっかりと位置付けられている。Cokeも最近は缶あるいはプラステイック瓶がほとんどでガラスのBottle Cokeはほとんど見られない。

今年の夏は、アメリカ在住の娘が孫の男の子二人つれて滞在していた。休暇で日光へ行ったが、東照宮の近くの売店で"昔懐かしい"Bottle Cokeを見つけて全員で"それぞれの想い"で飲んだ。孫も米国でもあまり見ないようで興味津々であり、瓶を持ち帰った。

私の書斎に一本おいて、アイスホッケーというスポーツに熱中している孫に思いを馳せている。

Dr. PepperそしてBottle Coke 忘れえぬ青春の味 そろそろ半世紀近く経とうとしている...

Dr. PepperそしてBottle Coke.JPG

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