6月15日(日)に松本城を訪れた後、安曇野の碌山美術館を見学した。
1879年12月1日、 長野県南安曇郡東穂高村矢原の農家荻原勘六・りょうの五男に生まれる。31歳で喀血して死亡するまでに、米国およびフランスを舞台に彫刻の制作を手掛ける。
美術館には、代表作「坑夫」も展示されているが、実に力強い作品である。
守衛は22歳で渡米しフェアチャイルド家(下図:左のメダル)の学僕となり芸術の勉学に励む。多くの友人を得る。
29歳では、日本で活躍。同時に相馬良(黒光)(中村屋の創始者)との精神的愛染に苦しむ。多くの彫刻の創作活動に没頭する。31歳に新宿中村屋で吐血して死亡。
今日この美術館を訪れ、荻原守衛の短い人生に接していると、農業の家業を励みながら、芸術および学業に目覚め、良き師・友人と出会い、自分を磨きながら、米国フランスを舞台とした国際的な芸術家として認められるようになったことが手に取るようにわかる。
本人も勿論であるが若い10代から出会い彼をサポートした様々な人々が素晴らしい。又 国際的な舞台に彼を駆り立てたものが何であったか推測すると凄く楽しい
私はこれを書きながら、私の祖父(大槻の農家の次男坊として生まれ、後に世界的な血液学者となる)の人生と重ねている。同様に様々な局面で色々な人が支援をし祖父を育成したものと思う。
わが国の若者の国際性(外に出て行く)が問題となっているこのごろであるが、これからの日本の若者にも、何者に無負けずに、外国で活動することにかられるような、課題をみいだし、エネルギーを注いでもらいたい。
風光明媚な安曇野の地で、「恵まれ環境で育まれた"人育て"の環境、海外へも若者を駆り立てる程の課題を見つける大切性」に思いを馳せている。
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