マーギー・プロイス著 金原瑞人訳
日本人が書いたジョン万次郎(中浜万次郎)に関する書物は非常に多く、私も最近刊行されたものは殆ど読んでいるが、本書はアメリカ人が書いたジョン万次郎についての書物として注目した。極めて読みやすい文章であった。
原語で読んでみたいと思い、たまたまLAに出張の際に本屋で探したところ、すぐ見つかったが、"Children's books"のコーナーにあり、本書の帯には、"全米の小中学校で話題の書"と記してあった。当時お互いの接点がほとんどなくお互いに野蛮人と思っていた日本人とアメリカ人、最初にアメリカにたどり着き住み着いた日本人について、アメリカの子どもたちは興味を持ったに違いない。
本書は、以下のチャプターに分かれている。
(1)土佐の海からの漂流、
(2)ハワイーアメリカへの船上、
(3)ボストン郊外での生活、
(4)帰郷
(1) カツオ船で嵐にあいアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されハワイからアメリカへ渡航する。その間の始めて遭遇したアメリカ人に対する驚きなどが細やかに描かれている。
(2) いつか殺されるかもしれないと危惧しながらハワイへ到着し、万次郎以外の乗組員はハワイに残り、万次郎はホイットフィールド船長に連れられてボストン郊外のニューベッドフォードに到着し、そこで入学し、米国での教育を受けることになる。
ジョン・マンJohn Mungと呼ばれていた。14歳であった。
成長して行く万次郎は一度捕鯨の船旅に出て手柄をたて昇格した。
捕鯨から帰国する際にオウムに日本語を教える。
万次郎は、可愛がっていたホイットフィールド船長の息子(3歳位)のウィリアムが将来日本を訪れる際に日本語に困らないように、教えようとしていた。
帰国したところ残念ながらウィリアムは熱病にて亡くなっていた。
万次郎の失意は推測してあまりある。
(3) 万次郎の望郷の念は捨てがたい者があり、カリフォルニアの金山で金を掘り当て、資金としてハワイ行きの船に乗り込み、ハワイで昔の仲間と合流して帰国する。
10年経過していた。その間連絡が途絶えていた母親と劇的な再開をする。
(4) 帰国してから、極めて懐疑的な仕打ちを受けるが、当時外国からの鎖国の開国圧力も強まり、万次郎は幕府に取り立てられることとなる。帯刀する武士となった。
ペリー提督とまみえることはなかったが、わが国が近代化に向かって激変する時代の大役の一端を担うこととなった。
私は、人間の"おかれた境遇に"対する順応性の素晴らしさ、人間の愛情が国・人種を超えて育まれる素晴らしさ、また能力・学識の備わった人間を起用する度量のある人間の重要さ、などに再度感激した。
また、アメリカ人が書いたものとして、万次郎が当時のアメリカ社会に如何に溶け込んだかなど、興味深く読んだ。
私は、1970年に大学卒業後直ちに渡米したが、時代は違い、日本人は多かったものの異文化と異国での生活に戸惑いながら順応して行った自分を重ね合わせている。
万次郎がニューベッドフォードでの学生時代に思いをよせたキャサリンにMay Dayの花とメッセージを送るのだが、キャサリンは80歳に亡くなるまでそばにおいていたという。
いずれにしろ、人間ジョン万次郎を日本、アメリカの双方から描いた極めて興味ある重要な書としてお薦めしたい。
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