アメリカ細胞病理学会(ASC)(オースチン市)にてInternational Achievement Award(国際貢献賞)を受賞

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去る1115日から19日まで、第71回米国細胞病理学会American Society of Cytopathology(ASC)が米国テキサス州オースチン市において開催された。教育的なセッションも多く組み入れられ、今回もデジタル細胞診、AIと細胞診、細胞診を用いたゲノム解析など教育的な内容も盛沢山で参加者も大変多かった。会期中1118日 のビジネスミーティングに続いて、各賞の授賞式が行われた。

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私は、幸運にもこれまでの国際交流活動が評価され、国際貢献賞を受賞することになった。

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大変な光栄だと思っている。これまで国際細胞学会International Academy of Cytology(IAC)の活動も多く理事長を拝命したりしたが、ASCとは多くのメンバーが共通であり、両組織は近しい関係にある。202211月には、IAC国際会議がASCとの合同でボルチモア市にて開催され、大盛会であった。

胞診の扱う内容もデジタル、ゲノムなどは国際的な活動であり、今後会員間の国際交流は極めて重要なファクターとなって行くと思われる。今後も引続き国際活動に貢献したいと思う。

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CAP 年次総会に出席しシカゴに滞在している間、余暇を見つけて 街を散歩した。シカゴはビルの建築が芸術的だという定評があり、ビル街をめぐる川クルーズもある。

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Chicago Museumも印象派の絵画のコレクションが豊富である。夜は、Jazz Liveを聴きに行った。

Water's ring Jazz PlaceChampian Fulton, Jazz showcaseでのPharez Whittedに足を運んだ。

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前者では女性ボーカル、後者では、男性トランペットを中心としたトリオであった。いずれもYouTubeなどで有名なエンタテイナーであった。

シカゴは、楽しい街である。

米国病理医協会College of American Pathologists(CAP)にてPresident's Honorを受賞

CAPは、病理診断、臨床検査の精度管理を目的としたNPOであり、以下の任務を担っている。

(1)病理検査・診断室の認定、(2)教育、(3)病理医教育を主体とした年次総会

 

今年度のCAP Meetingは、106日から9日までシカゴで開催された。

6日の夕刻に、President of CAP  Dr. Emily Volkから表彰状とバッジをいただいた。

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私は、1970年に医学部を卒業し直ちに渡米して、病理医としてのトレーニングを受けた。

デンバーに4年、デトロイトに1年滞在し、最終年に米国病理専門医試験に合格し(Board Certified by American Board of Pathology ABP)、直ちにCAPの会員となった。

Memberとして種々のCAP病理教育プログラムに参加した。2005年にはEndocrine PathologyShort course "Case Studies in the Diagnosis of Neuroendocrine Tumors" を行った。更には、Certified CAP Inspectorとなり、現在国内外の施設認定に従事している。

今回は、この永年のCAPへの貢献が認められたことは、非常に嬉しく、今回の受賞はこの上ない栄誉であると思っている。


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312日より16日まで米国New Orleansで開催されたUnited States-Canadian Academy of Pathology(USCAP)に出席し、私が前理事長Past Presidentである国際病理アカデミーIAP関係の会議に出席し、Special CourseShort Courseなど教育プログラムに参加した。

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多くの友人にも会い、対面での会話、Discussionの素晴らしさを改めて実感した。

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私が最初に出席したUSCAP1975年のNew Orleansであった。Ultrastructure of esthesioneuroblastomaのポスター発表を応募したが抄録はLab Investに掲載されRead by titleの扱いになった(現在はこの形式は無くなっている)。その年に日本に帰国したが当時業績はこの抄録1編だけであった。現在は500以上になっている。このNew OrleansUSCAPのあと、日本からほぼ毎年参加している。演題を応募して採択になった年も多かった。従って、私はこれまで国際的な拠点にUSCAPを念頭において活動してきた。

昨年10月にSydneyで開催されたIAP国際学会で、USCAP2028年にIAP国際会議をTorontoで開催されることが決定された。また、今回のUSCAP会期中のBusiness meetingUSCAP PresidentJohn Hartからアナウンスされ、私は大変嬉しく思わず大きな拍手をしてしまった。今後IAP国際学会は、2024年にCancun2026年にFukuoka、そして2028年にTorontoとなる。


New Orleansに関しては、もう一つ思い出深いことがある。私が1975年に滞在した際に初めてFrench quarterBourbon streetJazz,を聞き、それ以来"Jazzの虜"になったことである。今回も行ってみたが、昔と比べてライブジャズの店は減ってしまい、street musicianも多くは無かった。それでも1軒のJazz liveFritzel'sに入ったが素晴らしい演奏を聴かせてくれた。Jumbo Shrimp Jazz Bandというグループで沢山のYouTubeを出している。

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Jazzの火がまた勢いよく燃え始めた感じがしている。



 LAにおけるUSCAPに出席して Nothing better than face-to-face meeting

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318日に成田空港を出発して、25日に成田空港に戻るまで約一週間ロサンゼルスに滞在しUSCAPに出席した。ちょうど2年前に同じLAUSCAPがあり久しぶりの海外出張であった。以下のような手続きが必要であった。

往路:3回のCOVID-19ワクチン接種証明書

出発24時間以内のPCR陰性証明  My SOSInput

航空会社のQuick check-in

   米国への入国はスムーズであった。VisaESTAを取得

復路:出発72時間以内のPCR陰性証明

   MySOSInput

   成田空港で唾液検査

以上クリアになって、入国のパスポートのチェックの後入国となる。

   待機期間は撤去されていた。

 

USCAPは、平素は6000人規模の出席者In personがあるが、今年はIn person, On-line live, On demandの種類があり、全登録者数は4000名のところ現地での出席者は2000名程度であった。それでも会議もin personで開催され、学会発表もon-siteであった。

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久しぶりに多くの友人と会うことができ、嬉しい時の連続であった。

学会では、いつも通りのCompanion meeting(年々増加の傾向にあるが、、)、各種受賞講演、short courseslong courses、ポスター、口演などが朝から晩まで続いていた。

私は、IAC Companion sessionに座長を務めた、このセッションはon-siteのみで、会場への出席者の数が気になっていたが、こちらが手応えを感じる位の聴衆が集まり、議論も白熱した。内容はWHO-IACのコラボで細胞診の報告様式が作成されており、タイムリーな企画であったと言える。IAP-USCAPjoint session としてEducational Symposiumが行われた。内容的には、"slide-less teaching pathology"WSIのデジタルイメージを用いた病理教育、病理診断の精度管理、Molecular pathologyなど多岐にわたる内容で、質疑応答も活発に行われた。病理教育に力点を置くIAPとして相応しい内容であった。

前回On-siteUSCAPに参加してから、早くも2年もたってしまった。長年の友人とは、朝食、夕食をともにしながら種々の話題に花を咲かせ、学会場ですれ違う多くの知人に声を掛け合い "I am here in the States, it is really nice to talk to you!!"を実感した学会であった。

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増田ユリア著 「世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ」ポプラ社 を読んで

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カタリン・カリコ博士は、新型コロナウィルスのワクチンの基本となったmRNAを使用して抗体蛋白を体に作らせ、抗体による感染防止を考えた人です。

ハンガリー生まれで、科学者の道を進むも、政治的に継続が困難となり米国に渡り研究を継続。数々の困難に打ち勝ってmRNAの理論を打ち立てます。現在ファイザー社のワクチンの元となったビオンテック社の副社長。何事にもめげず、持論を患者救済に生かしたいという強い意志を貫いた科学者です。何事にも揺るがない科学への熱意を持つことは最も大切なことと私も実感しています。この生き方は、ひとり娘スーザン・フランシアに受け継がれ、スーザンはアメリカの代表として2008年北京、2012年ロンドンで開催されたオリンピックで金メダルを獲得しました。"母から学ぶことが多かった"と回想しています。

 

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カタリン・カリコ博士は、幼少の頃、また成長期に有名な科学者と知り合う機会があり、大いに激励を受けました。中でも特記されるべきは、幼少のころより学校で教わる機会のあった高校教師のアルベルト・トート先生。また科学的思考においては、彼女がハンガリーのセゲド大学に学び、研究者として活躍しはじめるころ、ビタミンCを発見しノーベル生理学・医学賞を受賞したセント・ジュルジ・アルベルト博士、ストレス学説を唱えのハンス・セリエ博士など。 トート先生は、幼少のころから彼女が生命現象に深い興味を持つことを見出しました。セント・ジュルジ・アルベルト博士、ハンス・セリエ博士は、科学に没頭する中において、遠く離れた若い科学者からの疑問に直接手紙などで答える熱意を持った人たちでした。彼女が所属していたサークル顧問のトート先生はノーベル生理学・医学賞受賞者のセント・ジュルジ・アルベルト博士にサークルのサポートをお願いする手紙を出したかったが、博士のアメリカの住所を知りませんでした。高齢の郵便局員が「有名人だから大丈夫だよ、名前とUSAと書けば届くから」といった。1972年のこと。いわれるままに「Dr. Szent-Gyorgyi USA」と半信半疑のまま出した。数日して本当に返事がきたことは、感銘を受ける話です。


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私も、米国留学して数か月 当時興味を持ち始めた下垂体、副腎についての病理学の疑問をストレス学説のハンス・セリエ先生に 投げかけたところ、"見ず知らずの若いレジデントに"丁寧なご返事と、疑問を持ったことへの称賛と、それについての独自の考え方を書いた手紙を貰いました、その熱意に感激したことは今でも決してわすれない記憶です。若い人たちにも激励の手紙を書いていた科学者の意気込みを今でも感じます。私もすこしでもその熱意に近づこうと病理医、科学者など若い学徒からの質問には丁寧に答えることに務めています。

現在行われている東京オリンピックで、アメリカが優勝した競技の表彰式で米国の国旗掲揚と米国国歌が流れた。ふっとDr. Charles Wetli(ニックネームChuck)を思い出し、45年前別れたきりのChuckはその後どうしているだろうか?、、、、、と 早速Google searchをしてみた。すごい連想力だと思った。

 

1975年、私は米国留学し専門医資格(American Board of Pathology ABP)を取得して帰国し、東海大学に就職して、母国での病理学のキャリアを始めたところであった。

米国での仕事、生活が懐かしくてたまらない時期であった。その頃、やはり新設医学部であった北里大学で、米国病理医とのカンファレンスが始まり、嬉しくも私にもお誘いの声がかかった。故西山保一教授が主催されており、早速出席させていただいた。毎回Case presentationがなされ、非常に興味のあるカンファレンスであった。そこで紹介されたのがChuck Wetliであった。Zama US Army Hospitalの若い病理医(Chief)であった彼は、非常に良く病理を知っていた。

調べた情報では、Chuckは私より1歳年上でZama HospitalにはABP合格後12年で就任したので病理の経験は私と同様であったとはずである。彼とは気が合って個人的な付き合いも始まり、Zama Hospitalにはしばしばお邪魔して病理のDiscussionをしたことを思いだす。住宅のあるCamp Zamaのご自宅にもお邪魔した。Campでの住まいは 芝生のあるアメリカの高級住宅街そのものであった。

Zama hospitalでは、5時になると米国国歌が流れ国旗おろす。その間敬礼saluteを命じられた。"Bob()We have to salute"Chuckに言われて私も敬礼をしたのを思い出す。これが、今回45年後にChuckを思い出した背景である。

 

Chuckとは親交を重ねたが、1978年ころマイアミに帰国した。寂しかったのを思い出す。2年後だったか、マイアミでUSCAPが開催され、そのころChuckはフロリダで法医学のキャリを進みその上昇気流の中にあった。以後、時折思い出すことはあっても、お会いする機会は不思議と訪れなかった。

 

早速GoogleCharles Wetliを調べた。なんと法医学で有名人となっていた。

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Charles Wetli, Medical Examiner for TWA Flight 800 crash, dies at 76. 

昨年の728日に亡くなった。死因は肺癌であったと報告されている。


NY Timesの報告によれば、1996717日にNYKennedy国際空港からパリに向けて飛び立ったBoeing747は離陸まもなく爆発してLong Islandの南の大西洋に墜落した。機内にいた230人は全員死亡した。4年間の解析の結果燃料タンクの爆発が原因であった。テロの可能性を否定するために全員の法医解剖がChuck Wetli(当時Long Islandの法医学主任Chiefであった)の指揮のもと行われた。時間がかかったため、政治家、家族などから批判が続出したが彼は自分の意志を貫徹して全員の個人の同定を可能にした。


NY Timesに掲載されるこのような逸話があるChuckに若いころ親交を得たことは、私の病理人生に花を添えてくれたと感謝している。

"Chuck! you did a great job. Please rest in peace" 

 

 

折角なので少しDaniel Inouye氏について資料を検索して読んでみた。

以下はその抜粋(抽出)である。

Inouye氏は、第二次世界大戦で、右腕を失い医師になる夢を断念せざる負えなかった、という経緯がある。それにもめげず1959年から50年にわたり選挙で上院議員に選出され大いに活躍された。

最終的には、最古参となる長年の上院議員での活躍などが、高く評価され上院仮議長を亡くなるまでつとめた。上院仮議長は、大統領継承順位第3位の高位であり、アメリカ歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとされている。

201212月に88歳で亡くなった。3日後、遺体を納めた棺がアメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に安置され、追悼式典などが開かれた。大広間に遺体が安置されるのは、Abraham Lincoln, John F. Kennedyなど一部の大統領や、ごく少数の議員に限られており、Inouye氏は、全体でも32人目、アジア系の人物としては初めて大広間に安置された人物となった。(以上Wikipedia

下の画像は、今も残る公式サイトのホームページです。

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また、福岡県八女市の「広報やめ」で八女市出身、ダニエル・健・イノウエ氏を紹介していて【広報アーカイブス】で閲覧できる。

  広報やめ2012101日号 (PDFファイル: 1004.3KB)

  広報やめ20151115日号 (PDFファイル: 1.4MB)


亡くなる前、2016年にInouye氏は10回目の選挙に出馬する計画を立てていた。当選すれば任期を全うするときは92歳になるところであった。その時、彼は次のような素晴らしい言葉を残している。

I have told my staff and I have told my family that when the time comes, when you question my sanity or question my ability to do things physically or mentally, I don't want you to hesitate, do everything to get me out of here, because I want to make certain the people of Hawaii get the best representation possible. (Wikipedia)

私は、私の人生において同様な言葉を口にするには、

まだまだ頑張らねばいけないと思っている。

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World War II veteran Daniel Inouye was known for his efforts toward deepening ties

(Japan Times 2021113日記事) Web版


私は、時々英語にふれたくなったり、またアメリカの日常も知りたくなったりし、朝の通勤時にJapan TimesNew York Timesを読む。偶然手に取った113日のJTに上記の記事が掲載されていた。

今回の記事は、日米友好の印として、Inouye氏のご祖父の生まれ故郷である福岡県の八女市に銅像(bust)を建立することに関する記事である。一緒に植樹されたハナミズキ(私の好きな)は米国から日米友好の象徴として贈られた花とのことである。

Daniel Inouye氏は、1924年にハワイで生まれ、2012年に88歳で亡くなっている。その間50年の長き(全米で2番目)にわたり、米国の上院議員を務め、その間にご自分のルーツである八女市を訪れている。市でもこの銅像が日米友好のシンボルになるよう期待している。Inouye氏は、第二次世界大戦中(ヨーロッパ)での功績が認められ米国政府が軍人に授与する最高の勲章Medal of Freedom, Medal of Honorを授与されたと記事は結んでいる。

Daniel Inouye氏は、私が卒業後渡米して、四苦八苦して病理の研修に明け暮れていた1972年ころ、Nixon大統領(当時)を辞任に追い込んだWatergate事件の公聴会で上院議員として厳しく鋭い質問をしていた光景を鮮明に覚えている。連日TVで放映されていたが、Inouye氏の姿は病理を研修中の"時にめげそうな"私に勇気と元気をくれた。Inouye氏はその時"Ⅱ世の日本人"として強烈な印象を与え、それ以後最近まで折に触れ思い出していた。

勿論直接お目にかかったことも話をしたこともない。私を元気づける思い出として"静かに心の中に燃え続けている"と表現すると適切なような気がする。

人生にはこういう出会いもあるのであろう。

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あけましておめでとうございます。

今年は、COVID-19の世界中のパンデミックの中で、いつもとは違う新年を迎えています。毎日、TVでは世界中および日本での、COVID-19の感染状況を定期的に放映し、海外はもとより日本国中でも移動が制限されており、特に海外への学会出張は、私は昨年の3月初旬にLAで開催されたUSCAP以来ゼロです。

私は、病理医という医療従事者として病院に勤務していますが、COVID-19の影響は極めて大きいものと実感しています。医療崩壊の危機が世界中で叫ばれる中、我が国でも"緊急事態宣言"が昨日(17)出されました。

世界中が、いわば静止状態となってしまった現在に生きているという事実は変えられません。この中で、昨年の12月初旬から、国際病理アカデミーIAPの理事長を拝命したのも、運命のめぐりあわせと思い、精一杯努力して任務を全うしたいと思っています。新年にあたり次の2点について述べ「今こそ"海を渡ろう・外に出よう・人と混じろう"」を強調したいと思います。

病理学・病理診断の推進:海外渡航が極めて難しくなった現在、情報交換はオンラインでする以外ありません。国際学会の学会活動もWeb開催となり、その短所・長所が論議されています。国際的な委員会なども、WebZoomが多い)となり、温もりを感じながらの会話とは程遠い感じです。このような状況でありながら、病理学での教育の国際的な展開を余儀なくされているのが現状です。私は、今IAPと他の学会がどのように国際的な連携できるかを考えています。ネットワークを駆使して国際的な協調から良い教育システムが構築されれば、わたしたちがコロナ禍の時代に"より"賢くなった明かしを示せるのではないでしょうか? 発展途上の国々にも行き渡るようなシステムの構築に思いをめぐらせています。

Webにより、今まで以上に広い世界に教育資材を供給できるようにしてゆきたいものです。

メールを使って世界に知人をIAPは世界に55か所の支部を有する国際機構であり、私は幸い各所に知人がいます。暮れから正月にかけて機会あるごとにIAP関係の個人、支部などに上のような"Season's Greetings"のメールを出しています。そして確実にこのネットワークの輪は拡がってゆく実感を得ています。学会の会場で出会い触れ合うことのできる繋がりも素晴らしく不可欠のものと思いますが、オンラインで普段では想定しないような遠方の国から返信があるときなど、手応えを感じます。移動ができないからと言って、"日本という島"に閉じこもるのではなく、今こそ新しい人とのつながりを求めてゆくことも重要と思います。Web環境では、違った形で"海を渡ろう・外に出よう・人と混じろう"が更に広い範囲で可能になっていることが実感されます。

今も "海を渡ろう・外に出よう・人と混じろう"など私の根本姿勢はかわることはありません。コロナ禍で、このような難しい状況であればこそ、これを私は特に若い諸君に"新年に贈る言葉"として考えてもらいたいと思います。

そしてワクチンなどの有効性が発揮され、再び実際に海を渡れる日が早くきて、"外にでよう・人と混じろう"がOn siteで実行できることを心待ちにしましょう。

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